『1984年』と聞いて何を思うだろうか。
教育実習で来ていた先生から教えてもらったこの本。「難しいかもしれないけど、最後の一文の意味を考えてみて」と言われ借りた一冊。
「最後の一文…?」
独特な本の題名、先生からの意味深な言葉も相まって興味が出てきたので読んでみることに。
英国では「読んだふり本」第一位
訳者あとがきにこう書いてあるんです。
英国での「読んだふり本」第一位がオーウェルの『一九八四年』だというのである。
読んだふりをしたくなるような本、気になりますよね!
今回はそんなジョージ・オーウェルの「一九八四年」をご紹介していこうと思います。
こんな人におすすめ!
- 社会、政治に関心がある
- 考察系が好き
- 哲学的、思想的なテーマに興味がある
- SF要素が好き
- 「自由」とは何か考えたい
ストーリーと舞台設定
物語の舞台「オセアニア」
この「オセアニア」、架空の全体主義国家なんです。ビック・ブラザーという絶対的な指導者のもとすべてが支配されています。
このビック・ブラザー、実は一度も出てこないんです。
ビック・ブラザーはプロパガンダなのか、そうでないのか、読み手によって解釈が分かれるのも面白いポイント。
政府機関は4つの「省」に分かれており、
- 真理省 真実をゆがめるところ、情報操作する
- 平和省 軍関係、ずっと戦争している
- 豊富省 経済関係
- 愛情省 警察 治安と法を管理している
特徴的な名前を持つ「省」ですが、真理省なんて嘘を作る機関であり、この矛盾こそが全体主義の恐ろしさを物語っています。
テクノロジーと監視社会
巨大な顔のポスターがこっちを見ている。これだけでも恐怖を感じるのに、さらに、どう動いても目が追いかけてくるように描かれたポスターが街の中にあって監視されているという。
常に「テレスクリーン」という機器で監視されているのがオセアニアの人々。
このテレスクリーン、情報を流すだけでなく、各々の動きや声も記録しているなんて怖すぎ!
さてさて、この現代、似た現象が起こっているのをお分かりだろうか
そう、スマートフォンやパソコンは個人が持っているし、街に出れば監視カメラや顔認証がありますよね。
驚きなのが、この『一九八四年』が書かれたのは、1949年ということ。オーウェルさん…近い未来になっていますよ…。
言語統制「ニュースピーク」
この「ニュースピーク」実にユニークな人工言語なんです。この言葉は、政府が人々の施行を制限するために作り、「自由」という概念をなくすため、「自由」という言葉を削除する、なんてことが実際に行われています。
これも現代のネットスラングや簡略化された言葉を思い起こさせます。
私たちが普段使う言葉が、私たちの「考え方」を考えているんですね。
日本語にも大和言葉など、美しい表現がいくつもあります。しかし時代が進むにつれ廃れてしまった言葉があるのもまた事実。
言葉が削られるというのは、自由を奪われることと同じくらい怖かったと実感した部分でもあります。
主人公の葛藤と物語のテーマ
ウィンストン・スミスの反抗
主人公ウィンストンは、オセアニアの全体主義体制の中に生きる平凡な男性です。
しかしウィンストンは次第に体制のプロパガンダに疑問を抱き始め、ひそかに反抗の意思を芽生えさせます。
物語冒頭の日記のシーンはウィンストンが書いたものでした
この行動、現代に置き換えればSNSでも「匿名アカウント」を作るようなものかもしれません。でも、ウィンストンにとっては命をかけた危険な行為ですが、この小さな反抗は非常に勇敢で痛ましい戦いでもあります。
ジュリアとの関係
ウィンストンは同僚のジュリアを「禁断の恋」に落ちます。この二人の愛は社会・体制への「最大の反抗」として描かれています。
オセアニアではこういった愛も完全に管理され、個人的な絆にも干渉しています。
自由で賢いジュリアに、ウィンストンは「人間らしさ」を感じたのかも
二人の秘密の逢瀬や隠れ家での時間は、短いのですがとても温まるシーンです。
思考警察と愛情省
ウィンストンとジュリアは思考警察に捕まってしまい、お互い別々に愛情省から拷問を受けます。ここでウィンストンが体験する地獄のような拷問の描写はとても印象的でした。
愛情省でのシーンは、二元の深淵や自由がどこまで脆く、いとも簡単に壊れてしまうのかを思い知らされます。
『一九八四年』が現代社会に与える影響
監視技術の進化と類似点
『一九八四年』に登場する「テレスクリーン」は、当時の読者にとってフィクションのみでした。「見られている」ことが前提になっています。
さらに、インターネットでの検索履歴やSNSの利用状況は、企業や政府によって分析されています。一見便利に見える技術ですが、無意識のうちに私の行動や選択が「管理」されている点は、オセアニアと少し似ていると思いませんか?
『一九八四年』を読んで考えることは、「監視される自由」と「見られない自由」のバランスです。便利さの裏に潜む危険性を、今一度見つめ直す必要があるかもしれません。
情報操作とフェイクニュース
『一九八四年』では「真理省」が過去の記録を改ざんし、歴史を操作しています。この設定、現代のフェイクニュースや情報操作を思い起こさせますよね。
かつて、SNSでは意図的に偏った情報が拡散され、それが世論を動かす力を持つことがあります。また、一度ネット上に公開された誤った情報は削除されることが少なく、それが「真実」として広まってしまうこともあります。これって、ビッグ・ブラザーが支配する世界とどこか似ている気がしませんか?
さらに、現代では「フィルターバブル」という現象も問題視されています。アルゴリズムによって、自分が興味のある情報しか考えられなくなる仕組みです。これにより、個々の視野が狭く、多様な意見を知る機会が減少します。『一九八四年』が描く「ニュースピーク」による思考の制限と共通する部分もあります。
自由と個人の見方について
『一九八四年』作者のオーウェルが読者に投げかける最も大きな問いは、「自由とは何か?」というものではないでしょうか。
自由とは何かを定める権利を指すのではなく、自分自身の思考や選択を守る力でもあります。
現代社会において、私たちは「自由」があると信じています。しかし、SNSでの発言が炎上を恐れて自主規制されたり、目にする情報が特定のアルゴリズムによって制限されたりしている現実を見ると、本当に自由なのか疑問に感じることもあります。
『一九八四年』は過去の話ではなく、未来の話だった
『一九八四年』のテーマは、過去の話ではないように思います。この小説を読むことは、未来への備えにもつながるのではないでしょうか?
この本の最後の一文、
彼は自分に対して勝利を収めたのだ。
彼は今、<ビック・ブラザー>を愛していた。
私はこの一文を完全に理解していないかもしれない。
けれど、思考や選択を邪魔されない、守る力というのが私たち一人一人へのオーウェルからのメッセージなのかもしれないと思いました。
たとえこの思考すらも、現代の「ビック・ブラザー」に支配されようとも。
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